上南摩上の城(鹿沼市上南摩町)36.5472、139.5472
いい城が沢山ある鹿沼でも、最高の部類に入る城として評判が高い。
確かにその通りである。でも、そう簡単には行けない。

上南摩下の城がある堀の内地区から県道177号線を北西に約1q行くと、県道北側に広厳寺がある。
この寺の裏山が城址である。

多くのHP等にはこの城に行くには、この寺の西側か東側の尾根を登る、と書かれている。
しかし、その道、きつい。

最も道なんかあるのか、ないのかも微妙である。
遺構までの寺からの比高は約150mである。かなりある。
しかも急傾斜の尾根である。
傾斜角を計算してみたら平均斜度が35°である。
とんでもない数字である。局所的には45°の場所もある。

木の根や幹にしがみついて登る場所さえある。
管理人、途中で息が切れ、目の前が暗くなった。木にしがみついて座り込みしばし休む。
一時的に血圧が低下したらしい。こんな所で119番したら助けてくれるのだろうか?
そんな不安がよぎる。休憩したら何とか回復。

こんな難行の末、ようやく尾根に出る。

↑南東側県道177号線から見た城址、本郭部。左下の平坦な部分にも遺構がある。右手の尾根が居館跡に通じる。

しかし、この城には県道177号線のパイパスの北東側から林道が延び、そこを行けばもっと楽に行けるようである。
下の城がある東側に延びる尾根を登れば、距離は長いがもっと楽に登ることができる。

ともかく、広厳寺の東の尾根を登って出た場所が主郭部から西側に延びる尾根にある曲輪Zである。
さっそく、土塁や坂虎口を持つ堀切Iのお出迎えを受ける。
ここがこの城の一番の弱点である西に続く尾根方面の防衛拠点である。

曲輪Zの西側に曲輪[があるが、この曲輪は約80mの長さがあるが内部は不整地である。
ここの標高は本郭のある場所より若干高い標高318mである。
曲輪[の西端に浅い堀切Jがある。
ここが城の西端である。

今度は東の主郭部方面に行くと標高は少しづつ下げ、曲輪Y、曲輪Xと続く。
それぞれ曲輪は東西に堀を持つが、曲輪内はそれほど整地された感じではない。
そして曲輪Xの東側から主郭部が展開する。
曲輪Xの標高は301m、長さは東西約70m、南北は帯曲輪状になっている。

@本郭内部、若干南側に傾斜しているが平坦である。 A本郭北端の最高箇所から下を見ると豪快な堀切がある。 B本郭南端の虎口、この先には木橋があったらしい。

曲輪Xと主郭部の間には堀切Hがある。
この堀切から東側には通路を兼ねた横堀が東に下る。
ここから本郭までは2つの堀A、Eがあり、20m以上の比高がある。
本郭@は50×13mの細長い曲輪で南側に傾斜している。標高は315m。
その東側に2本の帯曲輪U、Vがあり、曲輪UDは本郭の西側も帯曲輪となって一周する。

C Bの虎口(右上)から土塁上に橋が架かっていたらしい。 D 本郭の東下10mを巡る曲輪U、本来は横堀か? E 曲輪U北端の堀切の土塁下に曲輪Vから続く堀切が。

曲輪Uから本郭上までは10mほどの高さがある。
北端と南端には土塁があり堀切状A、Cになっている。
本郭の南側は虎口のようになっており、Cの土塁上まで木橋が架かっていたようである。
この構造、加園城の本郭、二郭間の連絡方法に似る。

曲輪U東側の7mほど下が曲輪Vである。
この曲輪の西端が堀切Eとなり、曲輪X東側の堀切を上から見る構造となる。
曲輪Vの中央部には下に下る坂虎口があり、その下に横堀があり、さらに下が曲輪Wである。

F 曲輪Wから見上げた主郭部 G 曲輪W外側の切岸と犬走り H曲輪Xと主郭部間の堀切は横堀になって東に下る。

曲輪Wは居館のような60×40mほどの方形の区画であるが、内部は段々状であり、小屋が建っていた程度と思える。
山上の居館と言えるかもしれない。
曲輪Wの北、東、南は切岸化工がされている。
南側には犬走りがある。
この曲輪Wには重機が入った痕跡があり、北に作業道が下る。
この道を来れば比較的楽に来れるかもしれない。

I曲輪Z、[間の堀 J曲輪[西の堀。ここが城域の西端である。

本郭の南側の尾根筋には堀切と曲輪があり、この南南摩小学校方面に下る尾根筋が大手道のようにも思えるが、末端部分を崩落防止工事が行われており、途中までしか下れないとのことである。
一方、下の城方面、南東側に下る尾根がある。
下山はこの尾根を下った。
この尾根上はアップダウンはあるが、広く歩きやすい。しかし、明瞭な城郭遺構はない。
ただし、ピークの場所に平場があり、柵を巡らせば曲輪にもなりそうな感じである。
居館からの通路はこの尾根と思われるが、真実は如何に?

下の城方面に下る尾根上は広く緩やか。
この写真は一番上の写真の右手の尾根上付近である。
36.5434、139.6832、標高214mのピーク上。ここに城郭遺構
があるように見えたが、平場しかなかった。でも柵を巡らせば?

この上南摩上の城、この付近の山城、いずれもかなりの土木工事量であるが、その中でも最上位である。

城主は皆川氏家臣の南摩氏と言われるがそれは下南摩城の城主のようであり、こちらの南摩氏は佐野氏の流れを組む久我氏の出らしい。
この付近は佐野氏、皆川氏、壬生氏、宇都宮氏の勢力範囲が入り乱れ、されに背後にいる佐竹氏、北条氏の影響もあり、混沌としていた。
そんな緊張した状態がこんな凝った城ができた要因だろう。

南摩氏もあちこち帰属を変えて生き残りを図っていたようであるが、戦国末期、下野西部は勢力が拡大した北条氏の支配下に置かれるようになり、南摩氏も北条氏に組したようである。
このため、北条氏滅亡に連座して滅亡し、この地を失ってしまう。
居館跡に住む大貫氏は子孫と言われる。
鳥居氏に仕えた南摩氏の名も確認できる。
この城の土木工事量、一介の土豪が施工できるレベルではない。
いずれかの大勢力の援助がないと不可能に思える。佐野氏か?壬生氏か?それともその背後にいた北条氏であろうか。

上南摩下の城(鹿沼市上南摩町)36.5407、139.6878
鹿沼市役所の南西約6q、県道15号線沿いにある下南摩城から県道177号線を北西に約2.5q行った所にある宝城寺の西側に位置する。
そこの地名、ずばり「堀の内」であり、居館跡が城主末裔と言われる大貫家である。
その裏、北東の山が城址である。

↑城址と南西下の居館跡

城に行くには大貫家の中を通るため、一言、挨拶が必要である。
裏の山に入る道は獣除けのフェンスがあるが、そこを乗り越えて山に入る。

山はほとんど管理された状態にはなく藪が酷い。
城の遺構はかなり良好な状態で残されている。

南北に長い尾根状の山の南端部標高191m、比高約50mの若干盛り上がった場所に本郭を置く。
その南側には堀切A、土壇、腰曲輪@、堀切が続く。
本郭は40×30mの広さ、東西を帯曲輪が取り巻く、東側は2段になっている。

@本郭から南に延びる尾根の曲輪群 A 本郭南下の堀切 B 本郭内部、平坦ではあるけど・・・。

この城の面白い遺構は本郭北側の大きな穴Cである。
すり鉢状で西側が開く。
直径は約20m、取り巻く土塁の外側部から測ると径30mくらいある。深さは約7mである。
いったいこれはなんだろう。井戸なのか?穴に入ってみたが、ジメジメした感じはない。
と言って虎口ではない。入っても本郭上に登る道がない。

C謎の本郭北にあるすり鉢状の穴 D穴(左)上の土塁の北側が堀切になっている。 E二郭の土塁と北側の堀

この大穴の北が堀切Dになり、堀底は帯曲輪に繋がる。
深さは本郭側から約6mほどある。
この堀切の北側が二郭E、30×20mの広さ、土塁を介し北側に堀切がある。

堀切Eを過ぎると尾根は登りとなる。
ここも曲輪Fであろう。長さが90mほどある。
北端に3段の腰曲輪が構築され、堀切Gで終わる。

F北に向かうと尾根が登りとなるここも曲輪だろう。 G北端の堀切

居館の一時的、避難場所と言った感じである。
本格的な詰めの城は県道177号線バイパスを渡った西側の北西から延びる尾根を北西側に水平距離で750m、比高で約150m登った上南摩上の城である。

下南摩城(鹿沼市南摩)
鹿沼市役所(鹿沼城)の南東5q、西の南摩川と東の笠井川が合流する場所に北側から突き出した尾根状の山、滝尾山の末端にある。
このため「滝尾山城」ともいう。
南摩小学校や勝願寺の北側の山で寺が館の場所と言われている。

また、この山の北側が南摩城CCであるが、この城の名前を採っている。
城は尾根末端の南摩招魂社裏の部分(下の城)と山の最高箇所部(上の城)の2箇所に分かれる。
平地の標高が120m、上の城が225mであるので比高100mである。
南摩招魂社裏の部分は標高が160m程度である。
城域は南北500mに及ぶが上下の城間はだらだらした尾根であり、明確な城郭遺構は認められない。

城へは県道15号沿いに南摩招魂社に登る参道があり、ここを上がる。
すでに南摩招魂社の境内も城域であり、居館があったのであろう。

ハイキングコースが造られており、遊歩道を辿れば夏場でも難なく上の城まで行くことができる。
南摩招魂社境内は30m四方程度である。その裏手から登りとなる。
ここから上がっていると既に2,3段の平坦地(4)が現れる。
(注 ( )付き数字は左の鳥瞰図に記入した番号に対応します。)

西側に横堀のようなものがあったが、後で確認したが、間違いなく城郭遺構であった。
この横堀は西側斜面をとおり、下の城背後の堀切までつながる。
神社から高度で20mほど上が下の城の主郭部(1)である。
主郭の南側は6mの切岸になっており下に土塁を持つ曲輪がある。
この曲輪は主郭の西側を回って、主郭に合流しているのでこれが本来の登城路であったと思われる。

その下にも曲輪3があり、堀切がある。主郭(1)は長さ40m、幅30mほどであり、西側以外を土塁が覆う。
北端と南端の土塁は高く櫓台と思われる。
主郭の北、上の城に続く尾根筋に4本の大きな堀切がある。
特に主郭北の堀切(2)は主郭側からの深さが7mほどある。

他は4mほどの深さである。この堀切群の北の尾根筋には上の城までの間に、堀切が2本(余り明確ではない。)と段差が見られる程度である。
上の城は下の城側に3つほどの小曲輪があるのみでいきなり本郭(5)となる。

南北60m、東西25mの平坦地である。東下に3段の曲輪があり、1番下の曲輪(6)は50mほどの広さがあり、前面には堀がある。
一方、本郭の裏側(北側)5mに土塁を持つ曲輪(7)があり、本郭の東側までを覆う。
本郭側には堀があったようである。

さらにこの曲輪の北下8mに横堀(8)がある。その北側は下り斜面になり、特に城郭遺構はない。

下南摩は皆川領であり、家臣の高木讃岐がいたが、皆川氏と不和になり、永正7年(1510)皆川氏と敵対していた佐野氏の家臣赤見内蔵介広孝を招いた。
この赤見氏が後南摩氏を名乗り、勝願寺の地に居館をおき、滝尾山に築城を開始、天正4年(1576)3代目秀村の代に城が完成する。
その後、南摩氏は壬生氏に従ったという。壬生氏はここに家臣の一色右衛門を置く。
このため、宇都宮氏やそれを支援する佐竹氏の攻撃を受ける。
天正18年(1590)壬生氏が小田原の役で滅亡し、城は廃城になった。

南から見た上の城がある滝尾山。 南摩招魂社がある場所がすでに
城域である。
4の部分から北を見ると横堀
(土塁を持つ帯曲輪?)が北に
延びている。
下の城、曲輪3。前面に土塁を持つ。
下の城主郭1の土塁。
ハイキングコースの道になっている。
「むなつき坂」が笑う。
それほどきつくはないのだが。
下の城の主郭1の背後には
大きな堀切2がある。
堀切の西側は曲輪状になり、
主郭1の西側を覆う帯曲輪になる。
上の城の本郭5。南側が若干高い。
上の城の本郭5北下の曲輪7。
本郭側に堀が
あったようである。
曲輪7は本郭の東側を覆い、
本郭に通じる虎口がある。
上の城の横堀8。先は竪堀になる。 曲輪7北側の切岸には石垣が
あったようである。

粟野城(鹿沼市口粟野
鹿沼市西部、鹿沼市街から足尾方面に向かう県道15号線を西に走り、旧粟野町の中心部、口粟野の通称「城山」にあり、現在、粟野城山公園として整備されている。
公園なら楽でいいと思ったのが間違い。

公園になっているのは谷津部の居館跡と言われる場所である。
その北側に山があり、当然、そこに詰めの城があるはず・・・と思いきや、これが大正解。
山を見なければ価値がないので、しかたないので山頂まで登る。

標高150mの公園(口粟野の標高は120m)から見ると、山の上に石塔が見える。
あのあたりが主郭だろうと推定。とりあえず、石塔のある場所まで向かうが、何とかそこまではちゃんとした遊歩道が付いている。
でも、途中、足のない奴が日なたぼっこをしているじゃないか!
そいつを通り過ぎ、石塔まで行くが、しかし、はずれ。

本郭はさらに奥地。まだ、先。ここからは道も怪しくなる。
さらに高さで20mほど登ると「女二城」という平坦地に着く。長さ15mほどの曲輪である。
ここから先は道だか、藪だか分からない状態。藪をかきわけ10mほど登ると岩山Gがあり、また、石塔が・・ここが本郭かと思えば、まだ、先が・・。
平坦でも岩の本郭などある訳もない。
ここは物見台だろう。

一度、6mほど降りると、鞍部になり、堀切Fが。さらに北に土塁があり、長さ20mほどの平坦地が、ここに「本丸」という標識がある。
でも鞍部が本丸なんてことあるのか?さらに登りになると、尾根伝いにEなどの曲輪が5段ほどある。
途中に石垣Dがある。これは本物だろう。

大きな岩を過ぎると長さ40m、幅10mほどの平坦地Bがある。
さらに5mほど登るとやっと山頂である。
山頂の標高258m。ここから北は尾根となる。

この場所は尾根末端の盛り上がりである。で、そこにあったのは「物見台」という表示と「口粟野防空監視廠」という碑が、その後ろに円盤状の台がある。(@)
この上にラッパが束になった集音機が設置されていたのだろうか。ここで太平洋戦争当時の戦争遺跡にお目にかかるとは思いもしなかった。
この場所は15m×10mほどの広さであるが、その東側に周囲を低い土塁で囲まれた15m×10mほどの広さの場所Aがある。
これが、本郭なのか?それとも太平洋戦争時に改変された場所なのか。

結局、この城の山城部の本郭という場所が、多分Bとは思うが、どこなのかよく分からない。
この山頂から南西側と北東側に尾根が延び、Bから南西に延びる尾根沿いには、小曲輪Cが展開する。
この尾根沿いは歩いていないが、堀切等も存在しているものと思われる。
そしてこの2本の尾根の末端部は谷津部の居館跡を両腕で包み込むようになっている。

北東の尾根末端Hはローラーコースターがあるが、その北の東屋には「矢倉台跡」の表示があった。
公園となっている谷津部の館跡には土塁が二重にあり、尾根間に開いた部分Iが大手だったようである。
谷津の奥に「忠魂碑」があり、その奥から山頂に向かう道が大手道であるようであり、途中に曲輪が数枚ある。
こう見ると、かなり大きな城であり、防御性を兼ね備えた、居館、詰め城一体の城といえる。

南東思川付近から見た城址 @最高箇所にある防空監視廠跡
一応、物見台となっている。
A物見台東の曲輪は土塁を持つ。 B物見台西下の曲輪、ここが本郭?
C Bの曲輪から南西に延びる
尾根の曲輪群
D @、Aの曲輪周囲には石垣がある。 E @から南に延びる尾根の曲輪。
 のろし台と言われる場所
F Eの曲輪の南の鞍部の堀切。
G 石塔が立つ岩山、物見台か? H 南東の尾根末端の矢倉台跡。 I 麓の居館跡の虎口の土塁 J 南西に延びる尾根の堀切

平安末期、足利又太郎忠綱がここに城を築き、涛速(なにわ)城と称したというが、これは伝承にすぎないであろう。
忠綱の一族郎党がここで全滅したとあるがこれも怪しい。

南北朝時代、還応元年(1338)、佐野氏の家臣、平野将監範久が築城(あるいは修築)したというのがもっとも確からしい、その後、戦国時代、小山宇都宮合同軍の攻撃で落城、佐野氏が奪還。
天正3年(1575)、平野大膳久国が城主の時、皆川氏に攻略されるが、同12年、佐野氏が奪還。
さらに同16年12月、再び、皆川広照の攻撃を受け、佐野方の援軍と共に防戦したが落城。

この戦は、激烈を極め皆川方の大将斎藤秀隆や粟野城代平野久国等を始め、多くの武将が討ち死、多くの死傷者を出した。
しかし、この攻防の歴史、凄いものである。
その粟野城にも最後が訪れる。皆川氏は、落合徳雲入道を粟野城代とするが、天正18年(1590)、小田原の役で上杉・真田軍の攻撃を受け、落城(降伏開城?)し、廃城となる。
(栃木県の中世城館跡、とちぎの古城、日本城郭大系を参考にした。)